大学3年の夏休み、私は免許合宿のついでに、母方の実家がある北関東のS県にある山間部の村、「六部(ろくべ)集落」を訪ねることにしました。
祖父は既に他界し、広い日本家屋には祖母が一人で暮らしています。
「なーんもない所だけど、涼しいからおいで」
電話口での祖母の言葉通り、そこはコンビニまで車で30分、夜になればカエルの合唱と虫の音しか聞こえないような陸の孤島でした。
到着した日の夜、久しぶりに会った祖母は、私が知っている記憶よりも随分と小さく、そして少し様子がおかしくなっていました。
認知症の入り口なのか、しきりに「ヒサオはまだか、ヒサオはまだか」と繰り返すのです。
ヒサオというのは、私が生まれる前に水の事故で亡くなったという、私の叔父(母の兄)のことです。
「おばあちゃん、ヒサオおじさんはもういないでしょ」
私がそう言うと、祖母は濁った目で私をじっと見つめ、
「……そうだったねぇ。かわいそうに、かわいそうに」
と、ブツブツ念仏のように唱えながら、仏壇に向かって手を合わせるのです。
その仏壇の横に、妙なものがありました。
古びた桐の箱です。
蓋には墨で『忌』とだけ書かれた和紙が、べったりと貼られています。
「おばあちゃん、これ何?」
聞こうとして手を伸ばすと、祖母は今まで見たこともないような形相で私の手をパチン!と叩きました。
「触るんじゃない! それは『身代わり様』だ」
「身代わり様?」
「……ヒサオがあっちへ行くとき、寂しくないように持たせた人形の片割れだよ。これを開けると、連れていかれるんだ」
祖母の剣幕に押され、私はその場を引き下がりました。
しかし、その夜から奇妙なことが起き始めました。
夜中、ふと目を覚ますと、廊下を誰かが歩く音がするのです。
ペタ、ペタ、ペタ、と湿った素足が床板に張り付くような音。
音は私の部屋の前で止まり、また遠ざかっていきます。
最初は祖母がトイレに起きたのだと思いました。しかし、翌朝祖母に聞いても「昨日は一度も起きなかったよ」と言うのです。
3日目の夜、事件は起きました。
例の足音が、また私の部屋の前で止まったのです。
さらに、ズズズ……と、襖を爪で引っかくような音が聞こえます。
恐怖で布団を被って震えていると、ふいに音が止み、廊下の向こうから祖母の叫び声が聞こえました。
「ヒサオ! 駄目だよ! そっちはミキ(私の名)だ!」
慌てて部屋を飛び出すと、仏壇のある居間で祖母が倒れていました。
そして、あの『忌』と書かれた桐の箱が、床に落ちて蓋が開いていたのです。
中には、泥と血で固めたような、赤黒い塊が入っていました。よく見ると、それはボロボロの赤い布を巻かれた、半分溶けたような小さな泥人形でした。
祖母は腰を抜かしたまま、震える指で誰もいない虚空を指さし、
「あぁ……あぁ……見つかっちまった……」
と譫言のように繰り返しています。
翌日、祖母はそのまま入院することになり、私は逃げるように実家へ帰りました。
後日談があります。
母にこの話をすると、母は青ざめた顔で「そんなはずはない」と言いました。
そして、私の知らない真実を教えてくれたのです。
「ヒサオお兄ちゃんが亡くなった時、おばあちゃんは悲しみのあまり、変な拝み屋に頼んで『儀式』をしたの」
「儀式?」
「死んだ子供の魂を呼び戻すっていう……でも、失敗したのよ。戻ってきたのはヒサオお兄ちゃんじゃなくて、『別のもの』だったって」
母の話では、その『別のもの』を封じるために、人形を二つ作ったそうです。
一つはヒサオ叔父さんの棺に入れて燃やし、もう一つをあの桐の箱に封印した。
『二つの人形が揃わない限り、あれはこっちの世界に戻ってこれない』
それが、あの箱の意味だったそうです。
私はゾッとしました。
あの夜、箱は開いていました。
つまり、封印は解かれたのです。
……でも、おかしいんです。
ここからが、この話の本当の恐ろしいところです。
私は東京に戻ってきてから、妙な夢を見るようになりました。
夢の中で、私はあの田舎の家にいます。
そして、泥だらけの男の子が、私の目の前で泣いているのです。
男の子は赤い布を被っています。
ある晩、夢の中の男の子が顔を上げ、私にはっきりと言いました。
「お姉ちゃん、どいてよ」
目が覚めて、私はようやく違和感の正体に気づき、吐き気が止まらなくなりました。
祖母はあの夜、こう叫びました。
「ヒサオ! 駄目だよ! そっちはミキだ!」
もし、箱の中に入っていたのが「呼び寄せてしまった化け物を封じるための人形」だったとしたら。 箱が開いたことで、化け物は解放されたはずです。
でも、夢の中の男の子は「どいてよ」と言いました。
そして祖母は、廊下にいるナニカに対してではなく、部屋にいる私をかばうように叫んだ……のではありませんでした。
祖母が叫んだ相手は、「廊下に立っていたヒサオ(の姿をしたモノ)」に対してです。
「そっちは」ミキだ、つまり、そっちはお前の目的じゃない、と。
じゃあ、ヒサオ(化け物)が狙っていたのは誰か?
違います。狙っていたのではありません。
ヒサオは、「自分の体」に戻ろうとしていただけなんです。
母は言いました。
「人形を二つ作った。一つは棺に入れ、もう一つは箱に入れた」
棺に入れた人形は燃やされました。
箱に入っていた人形は、泥と血で固められた赤黒い塊でした。
……本当に、箱に入っていたのは「人形」だったのでしょうか?
私が箱の中身を見た時、それは「半分溶けたような泥人形」に見えました。
でも、もしあれが人形ではなく、「ヒサオ叔父さんの一部」だったとしたら?
拝み屋は、死体を触媒にして魂を呼び戻そうとした。でも戻ってきたのは化け物だった。
だから、その「化け物の魂が入った肉体」の一部を切り取り、箱に封じて弱らせていた。
そして、残りの身体はどうしたのか。
私が幼い頃から、親戚たちは私を見てよく言っていました。
「ミキちゃんは、誰にも似てないねぇ」
「強いて言えば、死んだヒサオに似てるかもな」
私は昔から、水が怖くて泳げませんでした。ヒサオ叔父さんが水難事故で死んだように。
私は昔から、生肉を見るのが生理的に無理でした。
あの夜、祖母が本当に恐れていたのは、箱が開いたことではありません。
箱から出た中身が、私に向かって這っていったことでもありません。
祖母が恐れていたのは、
箱の中身(本体の一部)が、足りないパーツ……私を見つけて、一つに戻ろうとしていたことです。
夢の中の男の子は「どいてよ」と言いました。
最近、鏡を見ると、自分の顔が少しずつ男の人の顔に見えてくることがあります。
そして、左肩のあたりに、泥のようなシミが浮き出てきました。
あの箱に入っていた泥人形の形と、そっくりなシミが。
私は「私」なのでしょうか。
それとも、20数年間、自分が人間だと思い込んで生きてきた、作り物の器なのでしょうか。
今、背後で、ペタ、ペタ、と湿った足音が聞こえています。
振り返るのが怖いのです。
もし振り返って、そこに「私」が立っていたら、私はどうなってしまうのでしょうか。